他者との対話で成りたつ絵 | 美術・文芸評論家 針生一郎 |
栃原敏子の絵といえば、鮮烈にひろがる赤や黄と重たくたれこめる黒の対照、はげしく炸裂する筆致など、抽象的な要素がまず思いうかぶ。だが、よく見ると作者のモチーフはつねに人間、その栄光と悲惨、聖性と獣性の両極にわたる振幅なのだ。そうしたはてしない振幅をみきわめるため、彼女はときに太陽の光に照らされた宇宙、宇宙のなかのみえない生物のいのちをみつめ、また画面を抽象化せずにはいられない。それでいて造形から物語が消えてしまった今日、彼女の絵は観衆のうちに自由に劇的な物語をよびおこす力量すらそなえている。 どこからこのような力量は生まれたのか。栃原敏子が中国で生い立ったため、日本的通念の枠にはまらないことや、いまも国際都市神戸に住んで、ニューヨークやミラノなどでしばしば作品を展観して、国際的に活躍していることをあげる人もあるだろう。だが、前者はアーティストにとって所与の条件にすぎず、後者も作風の原因ではなく結果にすぎない。わたしはむしろ彼女の近作に多くみられる、《Watching(観察・凝視)》というタイトルに注目する。観察にはつねに新鮮なおどろきやよろこびがつきまとう、という意味の「作者の言葉」が過去の展覧会のカタログに出ているが、何よりも対象としての他者??人間、動植物、自然、社会、宇宙にむかうまなざしなしに、観察は成り立たない。しかも、十九世紀半ばまでのリアリズムのように、眼にみえるものだけを肉眼にみえる通りに模写するのではなく、眼にみえないものをも凝視し、あるいは内観しようとするから、彼女はやすやすと具象と抽象といった便宜的な分類をこえてしまう。そして、このような観察・凝視・内観によってみいだされる人間の深渕と、その深渕のなかでこそ確認される夢、希望、人間の可能性について、つねに率直に心をひらいてやはり他者としての観衆に語りかけ、はげまし、元気づける姿勢もまた一貫している。 わたしは当初このような栃原敏子の作風を、いわゆるアヴァンギャルド芸術が1960年代末にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートという袋小路の両極に達したのち、これでは商品にならないという主として画商たちの画策によってだが、ネオ・エスプレッショニズム、ネオ・バロックなどの別名もあり、「ニュー・ペインティング」との総称がもっともポピュラーな、1970年代の具象復興の国際的状況のなかで作家としてデビューしたせいだろうと推定していた。だが、そういう一般的状況をもちだすなら、やはり70年代に大衆消費社会のシステムが日常生活に浸透したとき、日本のあらゆる文学芸術がそれに反抗するあまり他者も切りすてて、自己の「アイデンティティ探し」というもうひとつの袋小路におちいった状況と、彼女はまったく無縁だったことの方が重要だろう。なぜなら、作者が自己を客観化して他者になり変わり、他者の眼で世界をみつめるいとなみが、芸術制作の欠かせぬ要件であることを、彼女は観察の対象としての他者と作品の受け手(読者、観衆、聴衆)としての他者とのたえざる両面の対話をとおして、明確に自覚していたからだ。 栃原敏子のスケールの大きい表現力の源泉は、こうした両面にわたる他者との対話以外になく、それは「おたく」などとよばれて多分に自閉症的な日本の同世代のなかで、ほとんど比類なくきわだってみえる。だが、その上に阪神・淡路大震災の衝撃とその後の相互扶助のボランティア活動の経験が加わって、彼女の制作はさらに具象と抽象の自在な往復運動をつづけ、宇宙、時間、内面、影の領域へと未知のモチーフを拡張しつつある。いわば熾烈な生成と冒険の渦中にあって、とうていこれまでの道程を回顧すべき時期ではない。にもかかわらず、展覧会も神戸、姫路、東京、埼玉、ニューヨーク、コネティカット、ミラノにおよび、だれにとっても彼女の全貌を見とどけにくいから、ここらで全作品を一冊の本に収録したい、との願望を作者がいだくのも当然のことだろう。そこでわたしは上述の主張をさらに要約するような言葉を揚げて、この走り書きの序文を終わりたい。 この数年京都にたち寄って、京都駅から平安神宮・美術館行きのバスに乗ると、まっさきに乗客の眼にとびこんできたのが、東本願寺のもっとも駅よりの白壁に突出する文字をレリーフ状に配置した、つぎのような三行の言葉である。 「バラバラでいっしょ 還ろう いのちの源へ 差異を認める世界の創造へ」 わたしの生家は浄土真宗だから、かつてわたし自身父と母の分骨を納めるため訪れた本山の東本願寺に、日ごろ関心があるのは事実だが、これらの言葉が親鸞や蓮如に由来するかどうか知らない。また昨年秋京都にたち寄ると、東本願寺の壁文字は「いのちが今、あなたを生きている」にはじまる別の言葉に変わっていたが、わたしは単純に以前の方が好きだし共感できる。それにはフランスの精神分析学者あがりの思想家、故フェリックス・ガタリの来日のたびに親しくつきあったわたしが、高度資本主義社会では体制を一挙変革する大きな革命はありえず、身近な人権侵害に抗議するなどの「分子革命」をつみあげるほかなく、したがって政党も党議に拘束されて党員みな同じことを言う「一枚岩」型はもう現実にそぐわず、党員が市民生活に密着してつかんだ問題を自由討議で検討しながら、その都度連携・協同の原理を確かめあう、リゾーム(地下茎)型の柔軟なネットワークに変わるべきだ、という彼の思想への共感が下地になっている。 まして芸術運動や芸術的コミュニケーションの領域では、この自閉症の蔓延する時代に栃原敏子が身をもって示したように、どんな権力にも権威にもしばられず、またイデオロギーも押しつけず、個々人のバラバラな差異を十分に尊重しながら、共通のいのちの源へとさかのぼって変革の可能性をさぐり、観衆もその共同の冒険の旅へと誘うことによって元気づける道しかないといえる。わたしが彼女の絵について強調した他者との対話も、けっしてそれらと別のことではない。 |