岐阜現代美術館「栃原敏子展」ー生き物はみな繋がっているー によせて

岐阜現代美術館「栃原敏子展」
ー生き物はみな繋がっているー によせて

西宮市大谷記念美術館
館長
越智 裕二郎

 この作家の授かった天稟は、日本離れしている。しいて言えばジャン・デュビュッフェのアール・ブリュットの系譜ということになるだろうか。ジャン・デュビュッフェが彼女の作品を見たら、自分のDNAを持った人間が東洋にも現れたと欣喜雀躍したに違いない。

 彼女が縁あってN.Y.で個展を開催して当地でブレイクしたことは、容易に理解できる。彼女のような作品を理解、評価する素地がアメリカやヨーロッパの方に豊かにあるからだ。それでも神戸で数少ない展覧会の機会の中で、彼女の絵画を鋭く評価したのが西村功、中西勝であったことは神戸の救いである(考えてみればどちらも安井賞作家だ)。

 彼女の作品を前にして、ことばは不要だ。京都で個展をした折、老人が通ってきて毎日杖の上にあたまを置いて彼女の作品をじっと見ていたそうだ。その人が針生一郎だと画廊の人が教えてくれた由。彼女の最初の画集に寄せた彼の一文は、絵に関わるところは数行、あとは針生一郎とガタリとの交流、「地下茎」(柔軟なネットワーク)の思想、彼の信念・観念が大部である。この高名な美術批評家の晩年、公募展審査でその謦咳に接することがあったが、常に作り手に寄りそう発言が印象に残っている。この批評家の友人によれば、癌に冒され余命宣告も受けていた中で、彼女の絵と出会えたことを「ついている」と喜び、友人によれば、彼女の絵のことが話題になると、針生一郎は嬉しそうに目を細めて聞いていたという。

 彼女が絵画、アートを自分の表現の中心に据えたのは40歳を過ぎてと遅かったようだが、ぶれも逡巡もなく一本道を直進しているように見えるのはすごいことだ。他の画家の影響といったものはまったくみえない。画材、素材、色もかたちもまったく自由に使っている。その脈絡もない。彼女の思念、経験、総体がある一点に向けてはじける。彼女にとって「表現」とはポエムのようなもので、天からこの人に降ってくるのだろう。

 それでも作品の時間的経過というのはあるようで、最近は空間をとりこんだ表現というか、インスタレーションへの関心を深めているように思われる。

 神戸の山に囲まれた自然環境の中で、新しくアトリエの環境も整ったようだ。針生一郎いうところの「宇宙、時間、内面、影の領域」、そしてグラフィティ、天から聞こえてくる声のままに、自身の表現がさらに長い時間続くこと、そしてバスキア亡き今、彼女の作品群が正当な評価を得るにいたることを願ってやまない。