越境する絵画 | ギャラリー島田 チーフキュレーター 島田 誠 |
詩人を夢見る少女であった栃原が画家となったのは30才になったばかりの頃の現代美術家、奥田善巳・木下佳通代との出会いであったという。とりわけ奥田からは画家としてのみならず、人としての生き方そのものに大きな影響を受けたという。 1990年ころから画作発表をはじめた、その頃の作品は「道化」を借りながら、描く喜びとアグレッシブなエネルギーに溢れている。そして震災。ボランティア活動に身を捧げながら多くの死や破壊された街に直面したが故の「命の尊厳」「再生」へとさらに強烈なパワーを発揮する。震災体験から生れた傑作「助ける人」「助けを求める人」(注)はその成果である。震災を体験した多くのアーティストは社会的な存在としての自己を強く認識するようになった。とりわけナイーブな栃原は生き方そのものを社会化させたと言ってもいい。 紛争・貧困・災害・テロなどの「命を脅かす」社会的要因を踏まえながら、人間の醜さと優しさの狭間で引き裂かれる自我を凝視(Watch)するがゆえに、より強く「命の豊かさ」を主張する。「目覚めよ!」(1998.4)や「太陽をゲットせよ!」(1998.12)は、自らを鼓舞し観衆を挑発する。その思いは国境を越え、地球をすら越えようとする。どの絵も観念の檻を打ち破る、幸・不幸を超越した人間の本質的な輝きを提示してみせる。私がギャラリー島田の21世紀の冒頭を飾る展覧会(2001年1月)に栃原を招いた所以である。 栃原絵画の特質としての強烈な色彩について述べる。 選び取られた色は明快であり、黒であってさえ沈む黒、闇の黒ではなく越境する黒である。絶望や失意、不安、敵意といった感情から解き放ちたいという強い意志表明である。よく言われる栃原作品の二重構造、二義性は画面の中ではなく栃原と絵画に隔てられたもので注意深く境界が設定され混濁することがない。その方向は「暗から明」「絶望から希望」「否定から肯定」へと越境していく。国境をも、地球をも越境していく。画面の明快さが見えにくくしているが栃原は含羞の人であり、孤独を知る人である。だからこそ「より強く」「より明快に」と作品は越境していく。それが自らの描くとうい行為の根源的な意味であるから。 しかし今回の個展(2006年6月)で発表された作品を見ると、注意深く設定されていた境界が臨界点に達して溶解しはじめたのかもしれない。例えば大作「いまここにいる」は軽井沢のアトリエの高い天窓から見える木々に触発されたという。 仰ぎ見る大木。光に映える緑の無数の諧調。それは時の移ろいのなかで時に闇に沈み、露に濡れ、風にそよぎ、霧に隠れ、陽に輝く。鳥の声、虫の羽音、葉の摺れ音を聴く。現実から遠く隔てられた浮遊感のなかで景色に抱かれて立つ自分。都会の喧騒からも、携帯やTVの電波からも離れ、はっきりと時の流れていく鼓動、血流の囁きをすら聞こえる静謐。しかし、その自分を見つめる自我は寂寥を抱え孤独の汗を舐める。またしても黒。「闇から湧出する黒は自画像かもしれない」と栃原はいう。 過度に優しくあろうとすることは自傷行為である。パワフルで強烈な色彩が覆い隠した、傷つきやすい魂、奥田から教えられた人との向き合い方、絵画との向き合い方が、必然的に社会との向き合いへと繋がってきて、自分の居場所「いまいるところ」として結実する。そこには明確なメッセージなどはない。さらけ出された自分がいる。総体としての自分こそがメッセージであることを表明しているようだ。 栃原敏子は新しい場へ歩を進めた。今まで注意深く自ら設定してきた境界を分け隔てる柵をすら取り壊そうとする。そんな覚悟を決めたと読める。厳しくいえば「ここから道は始まる」。2006年のギャラリー島田での個展は、その決意表明であり、刊行される画集は到達点ではなく、更なる高みを目指す道標である。 ギャラリー島田 島田 誠 注 兵庫県立近代美術館での「震災と美術」展に招待され、NYでも展示された重要な作品 |